LOGINわたしは姉弟の中で髪が一番長いからどうしても長湯になってしまうので最後に入るから、わたしがお風呂から上がるころにはいつも遅めの時間になってしまう。
今日は昼間の疲れもあってかいつもより長湯になってしまった。お風呂から上がってくると姉たちはすでに部屋へと戻り、その代わりに両親が帰ってきていた。
「おかえり~。遅くまでお疲れ様。すぐにご飯温めるね」
「そんなのお母さんがやるわよ。早く髪乾かさないと風邪ひいちゃうわよ」
「平気だよ。遅くまで仕事して疲れてるんだから2人とも座っていて」
お父さんからすまないなと声をかけてもらえるけど、今までいろんなことを子供優先で考えてくれている二人がしてくれてきたことに比べればこれくらいはやって当たり前と言えるくらい。
遅くまでお疲れさまとありがとうの気持ちを込めてビールを飲むか尋ねる。
「ありがとう、いただくよ」
おかずを温めている間に冷蔵庫から缶ビールと冷やしておいたグラスを2つ取り出して持っていくと、お母さんが受け取りお父さんにお酌をしてあげていた。
何年たっても仲いいよな、この夫婦。わたしもこの両親が大好き。若くして他界してしまった前のお父さんのことだってもちろん。
今のお父さんは前のお父さんと友人同士だったらしい。かの姉たちのお母さんは2人が小学校へ上がる前に病気で亡くなったらしく、その後は男手一つで二人を育てていたそうだ。
そんな自分の境遇もあってか子供3人を残してこの世を去ってしまった友人家族の事を放っておくことができず、わたしが芸能界を引退した時期お母さんに仕事を紹介したりあれこれ世話を焼いてるうちお互い惹かれあうようになり再婚を決めたのだとか。ま、お母さん美人だしね。
同じ商社に勤めていてそれなりのポジションについており、帰りが遅いことも多い。
お父さんだけじゃなく、お母さんだってずっとわたし達を大切にしてくれているのは言うまでもない。
以前お母さんにわたしが芸能界を辞めたせいで遅くまで働くことになってしまってごめんなさいと言ったら「子供が生意気言ってんじゃないの!お金を稼ぐのは大人の仕事なんだから気にしないで任せておきなさい」と割と本気で怒られてしまった。
芸能界にいたころは金銭だけが目当ての悪い大人が近づいてこないようにしてくれたり、変な仕事が来ないようマネージャーみたいなことまでしてくれて一生懸命わたしを守ってくれていた。
わたしが稼いだお金は必要最低限の生活費以外は将来のためと言って、億単位のお金があっても贅沢せずに貯金してくれていたのもお母さんだ。
他の子の親を見ていると送り迎え以外何もせず、子供の稼いだお金を使って高価なブランド物で着飾っている人もいたりしたから、その愛情の深さには心底すごいと思うしこの人がお母さんになってくれて本当によかったと思う。
お父さんも自分たちの事よりもわたし達の事を考えてくれたことは変わらない。本当ならお父さんの姓である梅山を名乗ることになったはずなのに、二人はそれを選ばず、婿入りという形で広沢のままでいることになった。
ちなみに広沢は最初のお父さんの姓であり、かつての友人の姓を名乗ることになったお父さんの心境はどうなんだろうとときどき不安になったりする。だって広沢の姓を名乗り続けることを決めた理由はわたしだから。
2度も名前を変更するのは不憫だからという理由。自分の子供は姓が変わることになるのに、それよりもわたしのことを優先してくれたことはとてもありがたいけど、正直申し訳ない気持ちが強かったりする。
最初の姓のときのことなんて何も覚えていないのに。文字通り何もかも。
そんなこともあってどうしても引け目を感じてしまい、お父さんを邪険に扱うことなんてできない。より姉とお父さんの仲をとりもったのもわたしだった。
かの姉とあか姉にも申し訳ないと思ってしまう。2人はそんなことをまるで気にせずわたしのことを大切にしてくれるけれど。
わたしは本当にこの家の子でよかったんだろうか。この恩を返すにはわたしの一生なんかで足りるだろうか。
温め終わったおかずを運びながらそんなことを考えていたら突然脳裏にあの日の光景が浮かんでしまった。
灰色の空から降り続ける雪。雪に埋もれたままだんだん失われていく体の感覚。濡れた髪がまるであの日の雪のように冷えており思わず身を震わせる。
全てはあの日から始まっている。全てを記録するかのようなずば抜けた記憶力に並外れた運動神経。
他の人から見ればうらやむような能力も実際には両刃の剣。
あの日わたしの元を訪れた雪の精霊が命と引き換えに授けてくれたギフトであり足枷。
そう、わたしは普通の人間ではない。
「ほら、体が冷えてきたんでしょ。早く髪を乾かしていらっしゃい」
その様子を見ていたお母さんからそう声をかけられてわたしはハッと我に返った。
温かい家の中にいることを確認して安心する。お母さんの言うとおりに洗面所へ向かいドライヤーを使うことにした。
わたしは広沢悠樹。温かい両親と優しい3人の姉、それに慕ってくれる妹がいる。少し早くなっていた心臓の鼓動を抑えるように鏡を見つめながら自分へそう言い聞かせると落ち着いてきた。
LEDの光を受けて光沢を帯びた髪をなでつける。家族にその方がかわいいからと言われて伸ばし続けている髪。誰もが褒めてくれるこの髪は今ではわたしの自慢だ。
わたしは家族みんなから愛されている。どうして男のわたしを女の子みたいに仕立て上げようとしているのかはわからないけど。
鏡に向かい笑顔を作って洗面所から出ると両親はすでにご飯を食べ終えたようで、晩酌を楽しんでいた。500mlの缶がすでに3本並んでいる。
「あんまり飲みすぎちゃだめだよ~」
「ゆき、大丈夫?」
表情に出ちゃってたのかな。心配かけてるようじゃだめだなぁ。
「なにが?」
バレているのはわかっていたけど、ここはあえてとぼけた。
「……ツラい時は甘えていいんだからね」
わたしはあえて返事をせず笑顔を見せるだけ。これ以上話を続けるとさらに思い出すことになってしまうので話題を変えることにした。
「そうだ、前に相談してた件だけど注文してたやつが今日納品されたんだ。一目で気にいっちゃったからさっそく明日から活動をはじめることにしたよ!」
あからさまに話題を変えたことはお母さんにも当然わかっているはずなのに、それ以上掘り下げることなくわたしの話に乗ってくれて来た。これもお母さんの優しいところだ。
「本当に大丈夫?今でも家の事をほとんどあなたがやっていて忙しいのにそんな時間本当にあるの?」
記憶力と要領のいいわたしは何をやっても手際よく済ませてしまうので時間に余裕を作ろうと思えばそれは容易なことだ。むしろ何もしていない時間が存在することの方が落ち着かないくらい。
家事を姉さんたちにまかせてもいいとお父さんは言うけど、そんなことをしたらわたしのすることがなくなってしまうし、なにより家事はわたしが好きでやっていることだ。
「大丈夫!全部わたしが好きでやっていることだから!明日からが楽しみで仕方ないほどだよ!」
その言葉に嘘はない。みんなの食事をつくることも家をきれいにすることもわたしは楽しんでやっているし、明日から始まるもうひとつのライフワークだってわたしが心から望んで始めることだ。絶対後悔なんかしない。
「あなたのやることだからお母さんたちは信用してるけど……無理だけはしないようにね」
「わかった。じゃあ下準備もあるし部屋に戻るね。洗い物は朝やるから置いておいて」
「洗い物くらいするわよ。そんなことはいいから遅くならないようにね。早く寝なさいよ」
「は~い!おやすみなさい」
「あの子の傷はいつまでたっても癒えることはないのかしらね」
悠樹のいなくなった食卓で明子と武則は先ほどより少し沈んだ表情で顔を見合わせる。
「ゆきくんにとって時間は薬にはならない……か」
「さっきも誤魔化してたけど、表情を見ればすぐにわかったわ。昔を思い出してしまったんでしょうね。」
「それは長年あの子を見続けてきた君だからわかることだよ。だけど無理に話させようとしても余計に過去の記憶を甦らせてしまうだけだろうからね」
「わたしが見つけたあの日から今もたくさんの重荷を抱え続けてるのよ。あの子のためにしてあげられることはないのかしらね。わたし母親なのに。無力だわ」
「無力なんかじゃないさ。あの子があんなに明るく優しく笑顔で暮らせるように育ったのは君のおかげさ。僕たちだけじゃなく娘たちもみんなゆきくんを本当に大切に思っている。いつかその思いが彼の心の氷も溶かしてくれるさ。焦らず見守っていてあげよう」
「そうね。あれだけ心身ともに美しく育ってくれたんだもの。信じてあげるのも親の役目よね」
そう言って悠樹の部屋の方へ視線を向けながら2人は笑顔を浮かべた。
デスクトップPCの前に座って今日納品された原画と3Dキャラを再度確認。何度見てもかわいい。推しの絵師さんに依頼してよかった。
すでに配信ソフトなんかはインストールしてあるので次はこのモデルを読み込んでモーションキャプチャとカメラの設定をすればセットアップは完了。あとはこのPCをスタジオに移設すればいつでも配信を始められる。
これこそマイホーム建築時に言った最大のワガママであり、わたしの貯金が底をついてしまった最大の理由。建物の下だけじゃなく庭にまではみ出して作られている広大な広さの地下室。わたしの夢を実現するためのスタジオは我が家の地下にある。
地下室を作る理由としてわたしの夢の内容と決して途中であきらめたりしない決意をしっかり伝えると真剣に耳を傾けてくれた。
そしてわたしの貯金なんて残らなくていいからと思い切り頭を下げてお願いした。
真剣にお願いするわたしの態度に最初両親はとても驚いていた。
それまでのわたしはワガママなんて一度も言ったことがなく、2人からすると良い子すぎてまるで壁を作られているかのように感じていたのかも知れない。
そんなわたしが初めてわがままを言ったことにとても驚いたけれどそれ以上に嬉しかったようで、2人の間で少し話し合った結果、快く承諾してくれた。
そんな経緯があって出来上がった地下のスタジオでわたしが明日から始めるのはVtuberとして歌とダンスの配信。
芸能界に戻ってはどうかとも言われたけど、たくさんの汚い大人に囲まれたあの世界へ戻る気にはなれない。
それでももう一度世間にわたしの歌とダンスを届けたいという願いは強かった。それにネットには利点もある。テレビだと国内だけの発信になってしまうけど、ネットなら国境を飛び越えて世界の人に見てもらえるチャンスがある。
子役の時、わたしの歌とダンスを見た人はみんな笑顔になってくれた。
わたしの歌に元気をもらいましたというファンレターがたくさん届き、それらは今でも大切にとってある。
歌には力がある。
少しでもみんなに笑顔を届け、沈んだ気持ちを前向きにできるような歌を作りたい。人々を幸福にするという雪の精霊の使命を果たすんだ。
そんな願いを込めて選んだのが配信者という道。顔出しして生のわたしを見てもらうのが一番いいのだけど、それはまだ早い。
プライバシーやセキュリティの問題もあるし、やり残したことをちゃんとマスターするまでは危険を冒すわけにはいかない。
わたしには何よりも大切な家族がいるんだから、わたしが守らないといけない。
それに最初から顔を出して配信してしまうと昔のファンたちが気付いてしまうだろう。まずは先入観なしにわたしの歌を聞いてほしい、評価されてみたいというチャレンジ精神もあったからVtuberというのはそういう面でも都合が良かった。
脳に残った障害のせいで警察官や医者といった直接人々を守る職業につけないわたしにとってはまさに天職。
ひとりでも多くの人に幸せを届けられるように願い、早く思うままに体を動かし声の限り歌いたくてうずうずしてしまう。
暗い気持ちになりかけたさっきの事は記憶の隅に追いやって、明日からの事に思いをはせ期待と興奮で胸を高鳴らせる。今日は眠れるかなぁ。
リスナーさんの前で復帰祝いの唄を披露し、失敗してしまったあの日から一年以上の月日が過ぎて、わたしは二十二歳になった。 そして今、わたしはある一室にいる。 「わたしはもっとみんなの近くで唄いたい!」 そう宣言してから半年以上、わたしはリハビリとボイトレに励み、そして自分の声を完全に取り戻した。いや超えた。 かつての音域からさらに半オクターブ、広げることができたのだ。 そしてわたしはボイトレに励みながら、ある計画を実現させるためにかつての自分の考えを覆す決断をしていた。「それではその時は全面的にプロデュースをお願いするということで。利益の取り分は書面通りで構いません。よろしくお願いします」 かつて大阪で琴音ちゃんを通じて知り合った女性プロデューサー、五代さんに向かって頭を下げる。「こちらとしてはどんな条件であれ、ゆきさんに来てもらえるなら大歓迎です。でも一体どういった理由で心変わりを?」 芸能界という世界を毛嫌いし、関連するようなところとは極力距離をおいてきたわたしが突然こんなことを言いだしたのだから、疑問に思うのも当然だろう。「確固たる目的のためです。わたしが以前、脳の障害で一年以上昏睡状態にあったのはご存知ですよね?」 黙って頷く五代さん。 ネットどころかオールドメディアでもニュースになったような出来事だから知っているのは当然だろう。いや、その仕事からしてたとえニュースにはなっていなくとも、彼女ならそのネットワークで情報を得ていただろうと思う。「元々わたしは幼いころから脳の障害を抱え、余命も宣告されていたことから生きることに対して諦めの気持ちがありました。だけどそれを変えてくれた人たちがいた」「お姉さん達ですね」 意外な人から突然核心をつかれてしまったことに驚き、わたしは目を見開いた。どうしてこの人がそのことを? わたしの疑問が顔に出ていたのか、五代さんはふっと笑うと以前は見せることのなかった柔和な表情を浮かべた。「ゆきさん、わたしは何も企業利益だけを考えてあなたに声をかけたわけじゃありませんよ。わたし
「みんなただいま!」 ようやく帰宅許可が下り、無事退院となったその日。 我が家では家族全員が休みを取って快気祝いのパーティーを準備してくれていた。「「「「おかえり!」」」」 声を聞くだけで分かる、心から待ちわびていた祝いの言葉。 お母さんから始まって、家族全員とハグをした。この辺はアメリカ生活をしていた名残なのかな。 お父さんは少し恥ずかしそうにしてたけど。息子相手なのになぁ。「それで、もう日常生活に支障はないのか?」 より姉が気づかわしげな視線で尋ねてきたので、わたしは元気をアピールするために腕をぐるぐる回してみせた。「この通り、すっかり元気だよ! まだ激しい運動は止められているけど、軽い筋トレくらいなら大丈夫。日常生活の筋力を取り戻すためにも家事は積極的にやってくださいだって。だから明日からはまたわたしがご飯を作るからね!」「……!」 みんな声にならないほどの衝撃を受けている。え、わたしがご飯を作るのってマズイ?「ま、またゆきのご飯が食べられる……」 両手で口を押さえたお母さんが感涙にむせぶ。えぇ、そんなに!? かの姉とあか姉は無言で両手を天高く突き上げている。一片の悔いなし? そしてより姉とひよりに両サイドから抱き着かれてしまった。「一年半ぶりのゆきちゃんの手料理! もう今からお腹が空いてきたよ!」 明日まで待ってたら餓死しそうだね。「いかん、よだれがとまらん」 本当によだれを垂らしてしまうより姉。乙女のする顔じゃないぞ。 でもこんなに待ち焦がれてくれていたとなれば腕が鳴るというもの。明日は目いっぱいご馳走を作ろう。「でも思ったよりも早く退院できましたね」 ようやく気分の落ち着いたかの姉がオードブルの並んだ食卓につきながら、感心したように言って来た。「そうだね。若さもあるけど、それ以上に頑張ったしね」 最初は半年の予定でリハビリプログラムを組
立てるようになってからのリハビリは、想像していた以上に大変だった。 平行棒、杖、歩行器を用いて転倒防止に注意しながら、重心移動や筋力向上、正しい歩行様式を取り戻していくのは一朝一夕にできるようなものではなく、なかなか思うように動いてくれない体に苛立ちを覚えつつも地道に筋力を蓄えていく作業。 下手に頑張りすぎると逆効果になると分かってはいるけど、一日も早い復帰を願う気持ちはなかなか抑えられるものでなく、遅々として進まないリハビリプログラムにヤキモキしていた。「さすが若いだけあって回復が早いですね」 歩行訓練後のマッサージをしてくれながら、理学療法士の飯島さんがそう言ってくれる。「自分では回復が遅く感じてしまい、どうしても焦ってしまうんですけどね」 どうしても頭をもたげてしまう焦りの心。 愚痴をこぼしたところでどうにもならないとは分かっているけど、ずっと優しく指導をしてくれる飯島さんにはつい甘えてしまう。「早くおうちに帰りたいですもんね。でもね、わたしもあなたのファンだから言うけれど、待っている側からすれば焦って戻ってきて取り返しのつかない後遺症が残るくらいなら、何年でも待つから万全な状態で戻ってきてほしいと願うものですよ」 優しい手つきでふくらはぎを揉み解しながら、それ以上に優しい笑顔を見せてくれる飯島さん。 リハビリが始まった当初からわたしのファンを公言していて、担当が決まった時には飛び上がって喜んだそうだ。 そんな熱心なファンをしてくれている彼女の言葉だから信じたいけれど、どうしても不安な気持ちは拭えない。「飯島さんはそうかもしれませんけど……」 八つ当たりにも似た発言だけど、飯島さんは気分を害した気配すらなく、穏やかに話を続けた。「不安になるのも分かりますけどね。ファンを信じるのもアーティストとしての務めじゃありませんか?」 ただの弱気の吐露にも関わらず、温かい表情で返ってきたその言葉に、わたしの中の何かが動いた。 今まで明確に意識したことはなかったけれど、わたしもアーティストの端くれな
リハビリをやり始めてから比較的すぐに自力で立ち上がれるようになった。 だけど、そこからが過酷な日々の始まり。 最初は一歩二歩と歩くだけで滝のような汗をかき、心拍数も爆上がりしてしまったのでその時点でリハビリ中止。 その後も数日間はトライしては中止の繰り返しで一向に進まない。 そこで体力の回復が先決だと判断した先生の指示により、立って歩くよりも先に長時間座ることから始めることにした。 ただ座るだけと思って侮っていたけれど、すっかり体力の衰えてしまった体にはこれが存外キツイ。 スマホを触って気を紛らわせているとはいえ、最初は二時間程度で音を上げてしまった。 だけどそれも繰り返すうちにだんだん苦ではなくなっていき、半日座っていられるようになった頃にはかなり体力も回復していたようだ。 その後に始まった歩行訓練でも最初のように滝の汗をかくことはなくなり、ようやく日常生活に向けての第一歩が始まった。「今日はね、リハビリ室の端から端まで歩けたんだよ」 嬉しそうに報告するわたし。「ふーん」 なんだか気のなさそうな返事をするより姉。「あれ? なんか怒ってる? わたしのリハビリが進んでるのが嬉しくない?」「いや、そんなわけないんだけどな。ゆきがどんどん元気になっていってるのはそりゃ嬉しいさ。でもな」 なんだろう。リハビリとは関係なさそうだし、他に何か怒らせるようなことしたっけ?「ゆき、何か報告しておかないといけないことを忘れてないか?」 報告? ずっと病院にいるわたしがリハビリのこと以外で何を報告することがあると言うんだろう?「何のこと?」 本当にわからない。わたしがより姉を怒らせるようなことなんて皆目見当もつかないよ。「茜とのことだ」「ひうっ!」 突然あの日のことを突きつけられて、ビックリすると同時に思い出してしまったので変な声が出た。「なんだその奇声は。茜が自慢気に話してたのは本当だったのか……。てっきりあいつの作り話だと思ってたのに」 カマかけられた! でも本当のことだから嘘をつくのもなぁ。「それで、だ。ゆき」 改めてわたしの方へと向き直るより姉。対して被告人よろしく姿勢を正すわたし。「正妻の立場としてはだな。茜がしてもらった以上は同じことをしてもらう権利があると思うんだが」 いや、あれはわたしの方からやったわけじゃな
「みなさん、こんにちは。どうもご無沙汰してました。雪の精霊、YUKIが今日もみんなに幸せを届けるよ! とまぁかつてのテンプレ挨拶をぶちかましたわけですが。みなさん、本当に長い間お待たせしました! ゆきはこの通り見事復活を果たして今ではピンピンしていますよ。 眠りこけていたおかげですっかり体がなまってしまったので、しばらくリハビリが必要なんですけど、またみんなに歌声を届けられる日が来るのも近いです」 ひよりに撮影許可とノートパソコンを頼んだ次の日、今日の当番だったあか姉が許可を取れた情報と共に届けてくれた。 そのパソコンを使ってさっそく配信予約を取り、夕食後の十九時に配信を開始した。 配信の告知をしたのは昨日なのに、みんな余程待ちかねてくれていたのか同接は60万人オーバー。 倒れる前の50万人を大きく上回る結果となった。「たくさんの人が見に来てくれて、それだけわたしの歌声がみんなに求められているんだと思うと感無量です。変わらぬ応援にとても感謝しています」 あまりのありがたさに思わず涙ぐんでしまう。だって一年以上ものブランクがあって、それでもこれだけの人が集まってくれるのが嬉しくて、ありがたくて。【歌ももちろんだけど、ゆきちゃんの顔が見たかった】【元気そうで安心した】【ゆきちゃんの姿を見たら涙が出てきた】【ほんと、おかえりなさい!】 歌だけじゃなく、わたし自身をも待ってくれていたというコメントに、とうとう涙が溢れてしまった。 あーあ、本当にわたし涙もろくなったよなぁ。男のくせにみっともないとは思うけど、止められないものはしょうがない。「みんな本当にありがとうね。一日も早くみんなの前で唄って踊れるよう、毎日リハビリ頑張ってるんだ! だからほら、一週間でもう立てるようになったんだよ」 そう言ってノートパソコンをテーブルの上に置き、立ち上がろうとするわたし。 まだ安定性には欠けるけど、どうにか自分の足で立ち上がることが出来た。隣であか姉がハラハラしたような顔で見てるけど。【あんまり無理はしないで】【ワイらはいつまでも待ってるから】【生まれたての小鹿みたいになってるやん】【怪我する前に座って!】 うちの姉妹だけでなく、リスナーさん達もわたしには過保護だな。「これくらい大丈夫だって。なんならターンしてみようか?」 調子に乗ってターンをしよう
日々続くリハビリは、思った以上に大変だった。 まずは寝返りや座ることから。最初の内はそれすらも大変で、どうにか寝返りを打てると言った状態だった。 それから座ることも難なく出来るようになったかと思ったら、息つく暇もなく自力で車いすに乗ることを特訓。 これが想像以上に困難なことで、立ち上がろうとしても膝が笑って上手くできない。看護師さんの介添えがあってようやくといったところ。「えへへ。密着出来て幸せぇ」 一部、邪な考えで介助してくれている人もいるけれど。 一度より姉に見つかって、ナースステーションで担当替えを真剣にお願いされていた。できればわたしも替えて欲しい。 でも決して手は出させませんという言質を得て、どうにか引き下がっていたようだ。そこで納得しちゃうのね。 わたしの不安な気持ちと、あの舐めるように見てくる気持ち悪い視線からは解放してくれないのだろうか。 病院も人手不足なのはわかるけど、あんなのを特別病棟に配置して評判に関わったりはしないんだろうかと心配になる。「今まではもうちょっとマシだったんですけどね」 他の看護師がそう言ってフォローしてたけど、正直何の慰めにもなってませんよ? むしろエスカレートしてるってことで余計不安になったわ。 だけど車いすに乗って久しぶりに外へ出たのは気持ちがよかった。すっかり忘れかけていた風の匂い。 そこには微かに草木の匂いが混じり、まもなく訪れる生命が謳歌する夏の気配を感じさせる。でも今日は少し湿っぽい匂いも混じっているから、雨でも降るのかな。 以前と違って色が見えるようになったわたしは、外の景色をいくら眺めていても飽きることがない。 目を凝らせば色というのはあちこちに散らばっていて、普通に暮らしていれば気づかないようなところにも鮮やかな色が潜んでいる。 例えばビルのひび割れから生えた生命力に溢れた雑草の緑。暗いアスファルトの隙間から顔を覗かせるたんぽぽの鮮やかな黄色。 普通の人なら気づくことなく通り過ぎてしまうその景色も、今まで違う世界を見ていたわたしには物珍しい。 部屋にいてもスマホやテレビを見ている時間より、窓の外を眺めている時間の方が長いくらいだ。「なぁに、また外を見てるの?」 今日はひよりの番なのか。「うん、今日も外の景色がキレイだからね」「やっと見えるようになっ
より姉が知らない男を追いかけて走ってくる。 追いかけられている男はなんだか嬉しそうな顔をしている。でもなんか目が血走ってて怖い。 しかも近づいてきているのに勢いが衰えない! まさか飛びついてくる気か!? 予想的中。その男は両腕を広げてわたしに飛びかかってきた。 条件反射って怖いね。 脳が勝手に不審者と判断したのか、わたしは懐に潜り込みひじを男の腹部にめりこませた。そのまま勢いを利用して巴投げの要領で後ろにポイ。 もんどりうって背中を床にたたきつけられた男はそのまま腹と背中を抑えて悶絶。
想像通りというか当然というか、翌日のニュースはまたしてもわたしと琴音ちゃんのことで持ちきりだった。 なにせ現役のトップ歌手が芸能人でもないただの配信者のチャンネルで素顔をさらして堂々と出演したのだから。 しかも相手はかつての子役時代の相方。 昔の番組がテレビで取り上げられ、当時の映像が10年ぶりに視聴者の目に届くこととなった。『ピーノちゃん』と『ポロンちゃん』、久しぶりに目にする姿は懐かしいと同時にどこか面映ゆい。 琴音ちゃんの事務所としてはあくまでも幼馴染であるわたしのための友情出演ということで、なんら関
「着いたぁ!」 電車に揺られること40分。わたし達5人は最寄りの海水浴場に到着した。 より姉が自動車免許を去年取ったので、レンタカーを借りようかと言う話も出たんだけど海で泳いだ後は絶対眠くなるとわたしが猛反対して結局電車で来ることにした。 より姉だけに負担をかけるのは嫌だし、帰りの運転を気にして楽しめなかったらもっと嫌だからね。 ただ、電車で着たことによって解決できなくなってしまった問題がひとつだけある。 わたしがどこで着替えをするか、ということだ。 わたしが普通に男子更衣室に入っていくと騒ぎ
雪乃さんとのコラボも神回認定で終わり、この企画のお相手はレイラさんを残すのみとなった。 紡さんの時と同じく雪乃さんとのお別れにも寂しさはあるけど、いつまでもそれに浸っているわけにもいかない。 せっかく応募してくれて、その中から選ばれた3人だ。 その全員に同じ熱量で向き合うのが当たり前だし、誰に対しても平等に接するのがわたしの矜持でもある。 そう思い自室のベッドに腰掛け、レイラさんのチャンネルを開き内容を確認する。 歌の内容はわたしと同じスタイルでオリジナルと歌ってみた、そして生配信といったコンテンツが並んで