Masukわたしは姉弟の中で髪が一番長いからどうしても長湯になってしまうので最後に入るから、わたしがお風呂から上がるころにはいつも遅めの時間になってしまう。
今日は昼間の疲れもあってかいつもより長湯になってしまった。お風呂から上がってくると姉たちはすでに部屋へと戻り、その代わりに両親が帰ってきていた。
「おかえり~。遅くまでお疲れ様。すぐにご飯温めるね」
「そんなのお母さんがやるわよ。早く髪乾かさないと風邪ひいちゃうわよ」
「平気だよ。遅くまで仕事して疲れてるんだから2人とも座っていて」
お父さんからすまないなと声をかけてもらえるけど、今までいろんなことを子供優先で考えてくれている二人がしてくれてきたことに比べればこれくらいはやって当たり前と言えるくらい。
遅くまでお疲れさまとありがとうの気持ちを込めてビールを飲むか尋ねる。
「ありがとう、いただくよ」
おかずを温めている間に冷蔵庫から缶ビールと冷やしておいたグラスを2つ取り出して持っていくと、お母さんが受け取りお父さんにお酌をしてあげていた。
何年たっても仲いいよな、この夫婦。わたしもこの両親が大好き。若くして他界してしまった前のお父さんのことだってもちろん。
今のお父さんは前のお父さんと友人同士だったらしい。かの姉たちのお母さんは2人が小学校へ上がる前に病気で亡くなったらしく、その後は男手一つで二人を育てていたそうだ。
そんな自分の境遇もあってか子供3人を残してこの世を去ってしまった友人家族の事を放っておくことができず、わたしが芸能界を引退した時期お母さんに仕事を紹介したりあれこれ世話を焼いてるうちお互い惹かれあうようになり再婚を決めたのだとか。ま、お母さん美人だしね。
同じ商社に勤めていてそれなりのポジションについており、帰りが遅いことも多い。
お父さんだけじゃなく、お母さんだってずっとわたし達を大切にしてくれているのは言うまでもない。
以前お母さんにわたしが芸能界を辞めたせいで遅くまで働くことになってしまってごめんなさいと言ったら「子供が生意気言ってんじゃないの!お金を稼ぐのは大人の仕事なんだから気にしないで任せておきなさい」と割と本気で怒られてしまった。
芸能界にいたころは金銭だけが目当ての悪い大人が近づいてこないようにしてくれたり、変な仕事が来ないようマネージャーみたいなことまでしてくれて一生懸命わたしを守ってくれていた。
わたしが稼いだお金は必要最低限の生活費以外は将来のためと言って、億単位のお金があっても贅沢せずに貯金してくれていたのもお母さんだ。
他の子の親を見ていると送り迎え以外何もせず、子供の稼いだお金を使って高価なブランド物で着飾っている人もいたりしたから、その愛情の深さには心底すごいと思うしこの人がお母さんになってくれて本当によかったと思う。
お父さんも自分たちの事よりもわたし達の事を考えてくれたことは変わらない。本当ならお父さんの姓である梅山を名乗ることになったはずなのに、二人はそれを選ばず、婿入りという形で広沢のままでいることになった。
ちなみに広沢は最初のお父さんの姓であり、かつての友人の姓を名乗ることになったお父さんの心境はどうなんだろうとときどき不安になったりする。だって広沢の姓を名乗り続けることを決めた理由はわたしだから。
2度も名前を変更するのは不憫だからという理由。自分の子供は姓が変わることになるのに、それよりもわたしのことを優先してくれたことはとてもありがたいけど、正直申し訳ない気持ちが強かったりする。
最初の姓のときのことなんて何も覚えていないのに。文字通り何もかも。
そんなこともあってどうしても引け目を感じてしまい、お父さんを邪険に扱うことなんてできない。より姉とお父さんの仲をとりもったのもわたしだった。
かの姉とあか姉にも申し訳ないと思ってしまう。2人はそんなことをまるで気にせずわたしのことを大切にしてくれるけれど。
わたしは本当にこの家の子でよかったんだろうか。この恩を返すにはわたしの一生なんかで足りるだろうか。
温め終わったおかずを運びながらそんなことを考えていたら突然脳裏にあの日の光景が浮かんでしまった。
灰色の空から降り続ける雪。雪に埋もれたままだんだん失われていく体の感覚。濡れた髪がまるであの日の雪のように冷えており思わず身を震わせる。
全てはあの日から始まっている。全てを記録するかのようなずば抜けた記憶力に並外れた運動神経。
他の人から見ればうらやむような能力も実際には両刃の剣。
あの日わたしの元を訪れた雪の精霊が命と引き換えに授けてくれたギフトであり足枷。
そう、わたしは普通の人間ではない。
「ほら、体が冷えてきたんでしょ。早く髪を乾かしていらっしゃい」
その様子を見ていたお母さんからそう声をかけられてわたしはハッと我に返った。
温かい家の中にいることを確認して安心する。お母さんの言うとおりに洗面所へ向かいドライヤーを使うことにした。
わたしは広沢悠樹。温かい両親と優しい3人の姉、それに慕ってくれる妹がいる。少し早くなっていた心臓の鼓動を抑えるように鏡を見つめながら自分へそう言い聞かせると落ち着いてきた。
LEDの光を受けて光沢を帯びた髪をなでつける。家族にその方がかわいいからと言われて伸ばし続けている髪。誰もが褒めてくれるこの髪は今ではわたしの自慢だ。
わたしは家族みんなから愛されている。どうして男のわたしを女の子みたいに仕立て上げようとしているのかはわからないけど。
鏡に向かい笑顔を作って洗面所から出ると両親はすでにご飯を食べ終えたようで、晩酌を楽しんでいた。500mlの缶がすでに3本並んでいる。
「あんまり飲みすぎちゃだめだよ~」
「ゆき、大丈夫?」
表情に出ちゃってたのかな。心配かけてるようじゃだめだなぁ。
「なにが?」
バレているのはわかっていたけど、ここはあえてとぼけた。
「……ツラい時は甘えていいんだからね」
わたしはあえて返事をせず笑顔を見せるだけ。これ以上話を続けるとさらに思い出すことになってしまうので話題を変えることにした。
「そうだ、前に相談してた件だけど注文してたやつが今日納品されたんだ。一目で気にいっちゃったからさっそく明日から活動をはじめることにしたよ!」
あからさまに話題を変えたことはお母さんにも当然わかっているはずなのに、それ以上掘り下げることなくわたしの話に乗ってくれて来た。これもお母さんの優しいところだ。
「本当に大丈夫?今でも家の事をほとんどあなたがやっていて忙しいのにそんな時間本当にあるの?」
記憶力と要領のいいわたしは何をやっても手際よく済ませてしまうので時間に余裕を作ろうと思えばそれは容易なことだ。むしろ何もしていない時間が存在することの方が落ち着かないくらい。
家事を姉さんたちにまかせてもいいとお父さんは言うけど、そんなことをしたらわたしのすることがなくなってしまうし、なにより家事はわたしが好きでやっていることだ。
「大丈夫!全部わたしが好きでやっていることだから!明日からが楽しみで仕方ないほどだよ!」
その言葉に嘘はない。みんなの食事をつくることも家をきれいにすることもわたしは楽しんでやっているし、明日から始まるもうひとつのライフワークだってわたしが心から望んで始めることだ。絶対後悔なんかしない。
「あなたのやることだからお母さんたちは信用してるけど……無理だけはしないようにね」
「わかった。じゃあ下準備もあるし部屋に戻るね。洗い物は朝やるから置いておいて」
「洗い物くらいするわよ。そんなことはいいから遅くならないようにね。早く寝なさいよ」
「は~い!おやすみなさい」
「あの子の傷はいつまでたっても癒えることはないのかしらね」
悠樹のいなくなった食卓で明子と武則は先ほどより少し沈んだ表情で顔を見合わせる。
「ゆきくんにとって時間は薬にはならない……か」
「さっきも誤魔化してたけど、表情を見ればすぐにわかったわ。昔を思い出してしまったんでしょうね。」
「それは長年あの子を見続けてきた君だからわかることだよ。だけど無理に話させようとしても余計に過去の記憶を甦らせてしまうだけだろうからね」
「わたしが見つけたあの日から今もたくさんの重荷を抱え続けてるのよ。あの子のためにしてあげられることはないのかしらね。わたし母親なのに。無力だわ」
「無力なんかじゃないさ。あの子があんなに明るく優しく笑顔で暮らせるように育ったのは君のおかげさ。僕たちだけじゃなく娘たちもみんなゆきくんを本当に大切に思っている。いつかその思いが彼の心の氷も溶かしてくれるさ。焦らず見守っていてあげよう」
「そうね。あれだけ心身ともに美しく育ってくれたんだもの。信じてあげるのも親の役目よね」
そう言って悠樹の部屋の方へ視線を向けながら2人は笑顔を浮かべた。
デスクトップPCの前に座って今日納品された原画と3Dキャラを再度確認。何度見てもかわいい。推しの絵師さんに依頼してよかった。
すでに配信ソフトなんかはインストールしてあるので次はこのモデルを読み込んでモーションキャプチャとカメラの設定をすればセットアップは完了。あとはこのPCをスタジオに移設すればいつでも配信を始められる。
これこそマイホーム建築時に言った最大のワガママであり、わたしの貯金が底をついてしまった最大の理由。建物の下だけじゃなく庭にまではみ出して作られている広大な広さの地下室。わたしの夢を実現するためのスタジオは我が家の地下にある。
地下室を作る理由としてわたしの夢の内容と決して途中であきらめたりしない決意をしっかり伝えると真剣に耳を傾けてくれた。
そしてわたしの貯金なんて残らなくていいからと思い切り頭を下げてお願いした。
真剣にお願いするわたしの態度に最初両親はとても驚いていた。
それまでのわたしはワガママなんて一度も言ったことがなく、2人からすると良い子すぎてまるで壁を作られているかのように感じていたのかも知れない。
そんなわたしが初めてわがままを言ったことにとても驚いたけれどそれ以上に嬉しかったようで、2人の間で少し話し合った結果、快く承諾してくれた。
そんな経緯があって出来上がった地下のスタジオでわたしが明日から始めるのはVtuberとして歌とダンスの配信。
芸能界に戻ってはどうかとも言われたけど、たくさんの汚い大人に囲まれたあの世界へ戻る気にはなれない。
それでももう一度世間にわたしの歌とダンスを届けたいという願いは強かった。それにネットには利点もある。テレビだと国内だけの発信になってしまうけど、ネットなら国境を飛び越えて世界の人に見てもらえるチャンスがある。
子役の時、わたしの歌とダンスを見た人はみんな笑顔になってくれた。
わたしの歌に元気をもらいましたというファンレターがたくさん届き、それらは今でも大切にとってある。
歌には力がある。
少しでもみんなに笑顔を届け、沈んだ気持ちを前向きにできるような歌を作りたい。人々を幸福にするという雪の精霊の使命を果たすんだ。
そんな願いを込めて選んだのが配信者という道。顔出しして生のわたしを見てもらうのが一番いいのだけど、それはまだ早い。
プライバシーやセキュリティの問題もあるし、やり残したことをちゃんとマスターするまでは危険を冒すわけにはいかない。
わたしには何よりも大切な家族がいるんだから、わたしが守らないといけない。
それに最初から顔を出して配信してしまうと昔のファンたちが気付いてしまうだろう。まずは先入観なしにわたしの歌を聞いてほしい、評価されてみたいというチャレンジ精神もあったからVtuberというのはそういう面でも都合が良かった。
脳に残った障害のせいで警察官や医者といった直接人々を守る職業につけないわたしにとってはまさに天職。
ひとりでも多くの人に幸せを届けられるように願い、早く思うままに体を動かし声の限り歌いたくてうずうずしてしまう。
暗い気持ちになりかけたさっきの事は記憶の隅に追いやって、明日からの事に思いをはせ期待と興奮で胸を高鳴らせる。今日は眠れるかなぁ。
金曜日の放課後。 明日はお休みということもあり、たくさんの生徒が残っておしゃべりしたり休みの日の予定を約束したりしている。 喧騒の中、わたしの名前を呼ばれたような気がしてそちらを向くと男子生徒が数人集まってスマホを覗き込んでいる。 スマホから聞こえてくるのはこの世で一番聞きなれた声。わたしの声だ。昨日の告知の配信を見ているらしい。ちょっと照れるんですけど。「な!この子めっちゃ可愛いだろ?」「絵師は日向キリか。俺も推しの絵師だけど、これはいつもよりクオリティが高いな」 さすがキリママの力作!やっぱりみんなかわいいと思うよね!自分のことのように嬉しい。まぁ自分の分身なんだけど。「それにこの子の声よ!チョーかわいくね?」「キャラによく合ってるな」 わたしがまだ中学生ということもあってキリママの書いた絵も幼い印象だったので、意識して少し高めの声で話してよかった。普段そんなに高い声で話してるわけでもないしこれで身バレすることはないだろう。「歌とダンスが好きなところといい、名前といい、……広沢っぽくね?」 えぇぇ!そんなあっさり……?名探偵すぎない?いやいや、ここは他人の空似ということでしらを切りとおすべし。ワタシカンケイナイ。心を無にしてやりすごそう。 幸い話をしていたのが男子だけだったので、直接聞かれることはなかった。 女子なら遠慮なく聞いてくるけど、男子はいまだにわたしに対して遠慮がち。 女子はもうみんな『ゆき』か『ゆきちゃん』って呼んでくれるのに男子は全員『広沢』って呼んでくるし。広沢は各学年にいるんだけどな。 ともあれ余計な火の粉が飛んでくる前にさっさと退散。(ゆきとひよりはもう待ってる頃かな) そんなことを考えながら急いで教科書をカバンに詰め込む。今日は日直だったので時間が遅くなってしまった。 帰り支度をしているとクラスメートが話しかけてきた。わたしは普段から無口なので友達とおしゃべりに興じることはほぼないんだけど、別に友達がいないとかじゃなく日常会話を交わす相手くらいはいる。「茜ちゃんの弟って確か自分のことを雪の精霊だって言い張ってるって言ってたよね?」 他の話題なら帰り支度を優先するけどゆきのことならいつでも大歓迎だ。他ならぬゆきのことなんだからあの2人ももう少し位は待ってくれるだろう。 弟の魅力はいくら語っても語り
ゆきちゃんがスタジオに入ったのをしっかりと確認してからより姉がわたしに確認してくる。 「それでこっちの手筈は整ってるのか?」 もちろん抜かりはないとばかりに笑顔でサムズアップ。 ゆきちゃんのことに関してはわたしに任せてもらえれば万事大丈夫。マネージャーかってくらい予定を細部まで把握してる。 スマホを取り出し、動画アプリを立ち上げる。そこに表示されている配信者のチャンネル名『雪の精霊/YUKI』「そのまんまじゃねーか!隠す気ほんとにあんのか?」 わたしもまさかとは思っていたがものは試しと検索してみたら一発で見つかったので思わず笑ってしまった。普段から自分を雪の精霊だって言ってるのにそのまんまって。 これでわたし達には秘密にしておきたいって言うんだからどこまで本気なのか疑っちゃうよね。「完璧人間なのに変なところで抜けてやがる」 まぁそういうのもゆきちゃんのかわいいところなんだけどね。「天然さんなのかしらね」 かの姉もくすくす笑いながらスマホを操作してる。「記念すべきゆきの初配信はスマホじゃなくて大画面で見たい」「ナイスアイデア、さすがあか姉!テレビにつなげるね」 アプリを使ってスマホをテレビ画面にリンクさせたところで配信開始3分前。 今頃ゆきちゃんはどんな気持ちでいるんだろうな。 不安半分ワクワク半分ってところかな? わたしもまたこうやって画面の向こうにいるゆきちゃんを見ることのできる日が再び訪れたことをとても嬉しく思っている。 子役の頃から画面の向こうでキラキラと輝いているゆきちゃんを見るのが好きだったから、突然引退したときは寂しくてわたしの方が泣いちゃったくらい。 アメリカではヒットしなかったしすぐに活動休止しちゃったからテレビで見る機会もほとんどなかった。 媒体は変わったけどこうして画面越しにキラキラするゆきちゃんをまた見ることができる。ゆきちゃん本人よりわたしの方が嬉しさで興奮してるかもしれない。「始まるよ」 カウントダウンが終わって画面が切り替わり、さっきゆきちゃんに見せてもらったアバターが画面に大きく映し出された。おー動いてる!『見に来てくれたみなさん、はじめまして~!わたし、今日からVtuberとしてデビューしました雪の精霊、YUKIです!初配信なのに160人も来てくれたんだね!ありがと』 絵師さんの最高
帰宅してすぐに夕食を作り、少ししたら久々に日本の柔道場へと向かう。アメリカでも道場には通っていた。 小さな道場だったから人数も少なくわたしに勝てる人はいなかったので、日本ではどこまで通用するようになっているか楽しみ。 道場に到着してまずは師範に帰国の挨拶。「お久しぶりです、師範。今日からまたこちらでよろしくお願いします」「ゆきちゃん、おかえり。アメリカでも道場に通って敵知らずだったそうだね。みんな君がどこまで強くなっているか楽しみにしているよ」 受講費を支払いに来たお母さんから聞いたのだろう。周囲を見ると先輩たちが笑顔ながらも挑戦的な目でわたしの方を見ていた。「この4年間で腕を上げたつもりではありますけど、今日は皆さんの胸を借りるつもりで自分の力を試したいと思います」 暴力が嫌いとはいえ、試合は別。こう見えてもわたしはけっこう負けず嫌いだ。ここまで挑戦的な視線を向けられたらいやがおうにも燃えてくる。やるからには絶対に勝ちたい。 まずは準備運動をしっかり行って体を温めておく。今日は約束稽古の後に乱取り。約束稽古は技の反復練習なので基本動作の出来や技の習熟度などを図ることができる。 乱取りはだいたいレベルが同程度の人同士で稽古を行うのだけど、今日はわたしがひさびさに帰ってきたから今の力量を図るという意図もある。 約束稽古の出来から見て初段相手で問題ないだろうということで高校2年生の兄弟子と組み合うことになった。 向かい合い一礼をして構える。組み合った瞬間に兄弟子の体のバランスが偏っていることに気が付いたので、そこを狙い崩して投げた。あっさりと一本。驚いた。 兄弟子も簡単に負けたことに驚いたようで再戦。結果5戦やったけど全戦瞬殺。 結果を見ていた2段の兄弟子とも同じく5戦試合をしたけど、その人ですら1分と持たずわたしに投げられてしまった。 道場がざわつく。そりゃそうだ。まだ昇段資格の年齢にすら達していない少年が有段者をいともたやすく投げ飛ばしているのだから。 自分でも己の運動神経の異常さは理解しているけど、武道の有段者相手にも通用するとは驚きだ。 最終的にちょうど非番で顔を出していたうちの道場の最高段位3段保持者の現役警察官、松田さんが手合わせをしたいと名乗り出たことで捨て稽古みたいになってしまった。捨て稽古は勝敗にこだわらず自分より実
1年生は1階、2年生は2階、3年生は3階と別れているので階段のところでそれぞれ分かれてブーイングを背中に浴びながら自分の教室へと向かう。 1日の始まりはあいさつから。教室の扉を開けて元気よく声を出す。「おはようございま~す!」「……あ、おはよ……」 ……あれぇ? ちゃんとみんなおはようってあいさつを返してくれたけど、なんだか元気がないというか声が小さい。 昨日はみんな歓迎してくれたと思ってたんだけど、今日は昨日の雰囲気とはうって変わってなんだか様子を伺われているような感じ?わたし何もしてないよね? 隣の席ということもあって昨日仲良くなった文香ちゃんが恐る恐るとでもいうか少し気を使ったような感じで私に近づき、尋ねてきた。「あのね、ゆきちゃん。もし間違ってたらごめんなさいなんだけどさ……ゆきちゃんて小さいころ芸能界にいたりした?」 げ!まさかそのことに気づく人がいるなんて!昨日はバレなかったから油断してた。一瞬誤魔化そうかとも思ったけど、いずれバレることだろうし嘘をつくのもイヤなので観念した。「あちゃー気づかれたかぁ。成長して顔も変わってるからバレることはないと思ってたのに……」「やっぱり!朝の子供向け番組に出てたピーノちゃんだよね!」 昨日に引き続き教室内は大騒ぎ。どうやらクラス委員長の杏奈ちゃんがなんか似てない?って気づいてみんなに確認し、よく見れば確かに面影があるということでクラス全員の意見が一致したところにわたしが登校してきたのであんな空気になっていたらしい。「そういえば性別不詳って設定だったけど、本当は男の子だったんだね!髪も今と同じで伸ばしてたし、あんまりにもかわいかったからてっきり女の子だと思ってたよ」 昔から初対面でわたしを男の子だと思った人はひとりもいない。 かわいい女の子ですね、いえ男の子なんです、あんまりかわいいから女の子だと思いましたまでが初対面の人に対する挨拶のテンプレートになっていた。「そりゃこんな小さいころからこれだけきれいな顔してたらそうだろうねぇ。スカウトだってそりゃされるよね。すごいなぁ。あれってわたしらが幼稚園くらいの時だよね」 当時の写真をスマホで見ながら穂香が聞いてきたが、子役としての活動期間は幼稚園から小学校1年生にかけての実質2年足らずでしかない。みんなよく覚えてたな。しかもそれがわたし
わたしの朝は早い。 まだみんなが眠っている時間に目を覚まして朝ごはんの支度。 それに両親と姉たちのお弁当も一緒に作る。中学はまだ給食があるからいいけど、より姉とかの姉、それに両親は放っておくとコンビニ弁当やパンなんかで済まそうとする。それだと栄養が偏ってしまうのでわたしがお弁当を作ってしっかりと栄養管理をしてあげないといけないのだ。 家族の健康を守るのもわたしの務めだ。 まず最初に両親が起きてくる。少しでも安くて広い土地を手に入れるため、少し郊外に家を建ててしまったので通勤に時間がかかるようになってしまった両親は姉たちに比べるとどうしても早くから支度しないと間に合わない。 先に用意してあった2人分の朝食をすませるとお母さんが毎朝欠かさないわたしとのハグをして、ゆっくりする間もなく出かけていってしまった。 両親を見送ったあとは姉たちを起こす時間。 うちの姉妹たちは誰も自分から起きてきてくれない。 目覚ましをかければ起きられるだろうにひとりとして目覚ましをセットして眠る人がいない。 彼女たちいわく、けたたましい音で不快に起こされるよりわたしに起こしてもらえる方が至福の目覚めを味わえるのだとか。なんだそりゃ。 以前試しにこっそり小鳥のさえずりの目覚ましをより姉の部屋にセットしてあげたら翌日の朝には破壊されていた。 爽やかな目覚めを迎えられるだろうと思ったのにちゅんちゅんというかわいらしい小鳥の鳴き声でさえ不快だったらしい。 なんてこった。自立できるのか、この人たち。 さぁ、まずは長女から起きてもらおうとより姉の部屋へ。「おはよう、より姉。朝だよ~。起きて」 至福の目覚めとまで言われればかける声も優しくなる。愛情をこめて極力柔らかい声を意識して耳元でささやくように起こしてあげる。「むー」「朝だよ。起きてってば~」 至福の声で起こしてあげてるんだからすんなり起きてほしいもんだ。肩をゆさゆさしていると、より姉の目がうっすらと開いた。 やっと起きたか。と思ったらおもむろにより姉の手が伸びてきた。 何?と思う間もなく首の後ろにまで回った腕に捕獲され、布団の中に引きずり込もうとしてくる。力強いな!起きてるだろこれ!「あとちょっとー。ゆきも一緒に寝よー」「はーなーせー!バカなこと言ってないで早く起きなさいー!」 体をちゃんと起こしてあげ
わたしは姉弟の中で髪が一番長いからどうしても長湯になってしまうので最後に入るから、わたしがお風呂から上がるころにはいつも遅めの時間になってしまう。 今日は昼間の疲れもあってかいつもより長湯になってしまった。お風呂から上がってくると姉たちはすでに部屋へと戻り、その代わりに両親が帰ってきていた。「おかえり~。遅くまでお疲れ様。すぐにご飯温めるね」「そんなのお母さんがやるわよ。早く髪乾かさないと風邪ひいちゃうわよ」「平気だよ。遅くまで仕事して疲れてるんだから2人とも座っていて」 お父さんからすまないなと声をかけてもらえるけど、今までいろんなことを子供優先で考えてくれている二人がしてくれてきたことに比べればこれくらいはやって当たり前と言えるくらい。 遅くまでお疲れさまとありがとうの気持ちを込めてビールを飲むか尋ねる。「ありがとう、いただくよ」 おかずを温めている間に冷蔵庫から缶ビールと冷やしておいたグラスを2つ取り出して持っていくと、お母さんが受け取りお父さんにお酌をしてあげていた。 何年たっても仲いいよな、この夫婦。わたしもこの両親が大好き。若くして他界してしまった前のお父さんのことだってもちろん。 今のお父さんは前のお父さんと友人同士だったらしい。かの姉たちのお母さんは2人が小学校へ上がる前に病気で亡くなったらしく、その後は男手一つで二人を育てていたそうだ。 そんな自分の境遇もあってか子供3人を残してこの世を去ってしまった友人家族の事を放っておくことができず、わたしが芸能界を引退した時期お母さんに仕事を紹介したりあれこれ世話を焼いてるうちお互い惹かれあうようになり再婚を決めたのだとか。ま、お母さん美人だしね。 同じ商社に勤めていてそれなりのポジションについており、帰りが遅いことも多い。 お父さんだけじゃなく、お母さんだってずっとわたし達を大切にしてくれているのは言うまでもない。 以前お母さんにわたしが芸能界を辞めたせいで遅くまで働くことになってしまってごめんなさいと言ったら「子供が生意気言ってんじゃないの!お金を稼ぐのは大人の仕事なんだから気にしないで任せておきなさい」と割と本気で怒られてしまった。 芸能界にいたころは金銭だけが目当ての悪い大人が近づいてこないようにしてくれたり、変な仕事が来ないようマネージャーみたいなことまでしてくれて